誰も見てないから安心しなよ

 

文章を書くこと、というより自分の気持ちを文章にアウトプットすることが好き、というつもりだったから、ブログを書いたりインスタにしょうもない写真を上げて長文のキャプションをつけることが好きだったし暇やネタさえあれば投稿していたが、ここ最近の更新頻度をご覧いただければ分かるとおり近ごろそれが全くできなくなっ

誰か見てると思うからそうなるのかな。お決まりの自意識過剰かな。

Twitterに慣れすぎたせいで長い文章への親しみを失ったのかな。ほら、こうして書いていても語彙が少なくなっているから言いたいことはコレジャナイ感がすごい。

人と話しているときに、あとから振り返ったら「あ〜言葉選びをミスったな」と思うようなことも以前と比べたらだいぶ減った。ないわけじゃないけど。でも前よりめっちゃ減った。

その代わり自分の発言で人が笑うことも減った。

自分で上手いこと言えたなって自画自賛するようなことも無くなった。

 

いつかバスガイドに復帰したいなと夢見ているけれど、こんなんじゃつまんないなとも思う。

気の利いた面白いことが言えない。

でもこれは過去の自分を美化しすぎているだけで昔から大して面白いやつなんかではなかったのかも知れない。

 

昔は誰かに何かを言って欲しくて何かを投稿したり、実際に声に出して言ったりしていた。

その度あやしてくれる人が誰かしらいてそれで満足していた。

今はそうじゃない。思ってもない慰めじゃなくて本当のことを教えてほしい。

けど、思ってもない慰めを言ってくれる人のやさしさを理解できる今は、そういうのも有り難く、嬉しい。

 

そもそも人に腹を立てることがほとんどなくなった。

20代の頃、より具体的にいうと前のバス会社を辞めるまでは仕事上で不当な扱いを受けたり軽んじられたりしても黙って仕事をこなす人や、そうしたことに激しい怒りを見せる私に対して「そんなに怒ることではない」というようなことを言っていた人のことを激務で感覚器官の死んだ人だとか、IQが低いなどと軽蔑していたが、今にして思えば、他人の些細なミスにあれほどの怒髪天を衝く方がおかしいのだ。軽んじられたと感じた時に瞬発力に任せてキレていたけど、自分のことをどれだけ高貴な存在だと誤認していたのだろうか。

完全に自分のことを棚に上げていた。神棚くらいありえない棚に上げていたのでは無いかとすら思う。

良くいまだに連絡をくれる人がいるもんだと思う。

名刺がわりに病名を使うのは矜持に反するので使わないけれど、おそらく自己愛が強すぎるのだろう。

 

自己愛が強い、というのはいわゆるナルシストとは違い、自分の思い通りに他人を操りたがる、他人を支配するための演技のような振る舞いをし、相手が自分の望む通りに動かなければ「攻撃された」と捉える大変厄介で最低な性質なのだと最近ネットで見た。

実際に私はそうした振る舞いをしていた実感がある。

「自分が一番良くわかっている自分」という部分に自信がないからそうなるらしいと知り一気に腑に落ちた。

そこで多くの自己愛の強い人はわかりやすいスペックやステータスを上げるのだけれど、私はそれすらせず、喋ることで面白さを匂わせ「何か才能がある面白い人」と見せかけることに必死だった。

バカみたいだ。

娘を褒めるときについついやってしまうが、スペックやステータスとして他人の評価を受けやすい部分を褒めるのはあまり良くないなと思った。

「自分が自分でいること」を肯定して育ってほしい。

そして私のように大人になっても人にあやしてもらう必要のない自立した大人になってほしい。

 

もう他人からどう思われているか、ということや誰かに愛されるということに固執していないと今は思う。

誰かに愛してもらうことすらステータスにしていたんだろうな。

過去に付き合っていた人みんなのこと人として今も大好きだけど、当時はきっと恋人がいる自分の方がずっと好きだったようだ。

 

自分の心の声を遠慮なく尖ったまま吐露する場所も相手ももう必要ない。

本音を言える相手も要らない。

自分の中で消化することや、聞き流すこと(本当に体の中をすり抜けていくように)ができるようになった今は本当に楽だと思う。

これを成長と捉えるか退化と捉えるかは私次第だけど、成長というとあまりにも自分都合のように思えるし、実際私の目の前に横たわる余生は目も当てられないくらいいよいよ悲惨になってきているので、見ないようにしてやり過ごしたいと思う。

けどひとつ、自分のことを褒めてやれることがあるとしたら、この状況をもう他人にどうにかしてほしいなどと望まないで向かって行けるようになったところ。

未来は明るくはない。けど毎日をとりあえずやっていこう。そのうちきっといいことがある。なくても生きていく。