愛猫ユニ

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今日愛猫のユニが天国へいってしまいました。

2年前の大病を生き延びた時点で奇跡だったから、こうなる日がくるまで長い時間を頑張って生きていてくれたと言えます。

 

その最後はとっても静かで、その瞬間を見逃すほど静かに静かに息が止まっていきました。

柔らかでふかふかしたまんま眠るような最期でした。

 

ユニは赤ちゃんの頃から最期までとても良い子でした。

 

私は実家にユニを押し付けて上京し長い時間彼との時間を過ごすことは出来なかったのですが、娘の出産を機に帰郷し、そこからは娘ともどもお世話になりました。

 

子どもが苦手なユニ。

娘が生まれた時も近づきもしないでずっと見ていましたが、それでも赤ちゃん期はここぞというときいつも助けてくれる猫でした。

初めての沐浴で、お湯に付けられる娘を見たユニは走ってきて手で止めようとしたり、夜中枕元にいた虫を仕留めて別の部屋に持って行ってくれたり、

1歳になった娘が夜目を覚まして泣きながら階段へ向かって走ってくる足音にいち早く反応して身体で止めてくれたり、

猫バカと思われそうなエピソードばかりですが全部本当に彼がやってくれたことなんです。

 

ありがとう。

 

長いこと苦しんだけれど、これで楽になったよね。

ゆっくり休んでね。

君以上の猫はこの世にいないと思ってるよ。

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誰も見てないから安心しなよ

 

文章を書くこと、というより自分の気持ちを文章にアウトプットすることが好き、というつもりだったから、ブログを書いたりインスタにしょうもない写真を上げて長文のキャプションをつけることが好きだったし暇やネタさえあれば投稿していたが、ここ最近の更新頻度をご覧いただければ分かるとおり近ごろそれが全くできなくなっ

誰か見てると思うからそうなるのかな。お決まりの自意識過剰かな。

Twitterに慣れすぎたせいで長い文章への親しみを失ったのかな。ほら、こうして書いていても語彙が少なくなっているから言いたいことはコレジャナイ感がすごい。

人と話しているときに、あとから振り返ったら「あ〜言葉選びをミスったな」と思うようなことも以前と比べたらだいぶ減った。ないわけじゃないけど。でも前よりめっちゃ減った。

その代わり自分の発言で人が笑うことも減った。

自分で上手いこと言えたなって自画自賛するようなことも無くなった。

 

いつかバスガイドに復帰したいなと夢見ているけれど、こんなんじゃつまんないなとも思う。

気の利いた面白いことが言えない。

でもこれは過去の自分を美化しすぎているだけで昔から大して面白いやつなんかではなかったのかも知れない。

 

昔は誰かに何かを言って欲しくて何かを投稿したり、実際に声に出して言ったりしていた。

その度あやしてくれる人が誰かしらいてそれで満足していた。

今はそうじゃない。思ってもない慰めじゃなくて本当のことを教えてほしい。

けど、思ってもない慰めを言ってくれる人のやさしさを理解できる今は、そういうのも有り難く、嬉しい。

 

そもそも人に腹を立てることがほとんどなくなった。

20代の頃、より具体的にいうと前のバス会社を辞めるまでは仕事上で不当な扱いを受けたり軽んじられたりしても黙って仕事をこなす人や、そうしたことに激しい怒りを見せる私に対して「そんなに怒ることではない」というようなことを言っていた人のことを激務で感覚器官の死んだ人だとか、IQが低いなどと軽蔑していたが、今にして思えば、他人の些細なミスにあれほどの怒髪天を衝く方がおかしいのだ。軽んじられたと感じた時に瞬発力に任せてキレていたけど、自分のことをどれだけ高貴な存在だと誤認していたのだろうか。

完全に自分のことを棚に上げていた。神棚くらいありえない棚に上げていたのでは無いかとすら思う。

良くいまだに連絡をくれる人がいるもんだと思う。

名刺がわりに病名を使うのは矜持に反するので使わないけれど、おそらく自己愛が強すぎるのだろう。

 

自己愛が強い、というのはいわゆるナルシストとは違い、自分の思い通りに他人を操りたがる、他人を支配するための演技のような振る舞いをし、相手が自分の望む通りに動かなければ「攻撃された」と捉える大変厄介で最低な性質なのだと最近ネットで見た。

実際に私はそうした振る舞いをしていた実感がある。

「自分が一番良くわかっている自分」という部分に自信がないからそうなるらしいと知り一気に腑に落ちた。

そこで多くの自己愛の強い人はわかりやすいスペックやステータスを上げるのだけれど、私はそれすらせず、喋ることで面白さを匂わせ「何か才能がある面白い人」と見せかけることに必死だった。

バカみたいだ。

娘を褒めるときについついやってしまうが、スペックやステータスとして他人の評価を受けやすい部分を褒めるのはあまり良くないなと思った。

「自分が自分でいること」を肯定して育ってほしい。

そして私のように大人になっても人にあやしてもらう必要のない自立した大人になってほしい。

 

もう他人からどう思われているか、ということや誰かに愛されるということに固執していないと今は思う。

誰かに愛してもらうことすらステータスにしていたんだろうな。

過去に付き合っていた人みんなのこと人として今も大好きだけど、当時はきっと恋人がいる自分の方がずっと好きだったようだ。

 

自分の心の声を遠慮なく尖ったまま吐露する場所も相手ももう必要ない。

本音を言える相手も要らない。

自分の中で消化することや、聞き流すこと(本当に体の中をすり抜けていくように)ができるようになった今は本当に楽だと思う。

これを成長と捉えるか退化と捉えるかは私次第だけど、成長というとあまりにも自分都合のように思えるし、実際私の目の前に横たわる余生は目も当てられないくらいいよいよ悲惨になってきているので、見ないようにしてやり過ごしたいと思う。

けどひとつ、自分のことを褒めてやれることがあるとしたら、この状況をもう他人にどうにかしてほしいなどと望まないで向かって行けるようになったところ。

未来は明るくはない。けど毎日をとりあえずやっていこう。そのうちきっといいことがある。なくても生きていく。

年末年始。

高校卒業以来従事していたバスガイドという仕事では考えられなかった年末年始の長期休み。(と言っても、7日間ですが)

今年は身内にコロナ騒動があり、年末には終息していたものの、未感染の友人に会うのは少し憚られたので家族で過ごしました。

昨日、一昨日は母と娘と名古屋に。

名古屋港水族館に行きましたが、娘はなぜかペンギン以外見たくない!と謎のこだわりをいきなり発揮して、館内順路ラストのペンギン水槽までダッシュして滞在時間30分もない鑑賞となりました。

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お天気は良く、ご機嫌の波がありましたが娘なりに楽しんでいるようでした。

 

明後日には仕事始め。

今年も頑張ります。

2023年

 

昨年3月から更新が止まっていて私らしさ全開のブログになっていました。

あっという間に過ぎ去った2022年でしたが、コロナ禍におけるこの数年の中で一番いろんなことをして充実した一年だったように思います。

仕事は亀の歩みながらも自分なりの成長を遂げることはできたと思っていますし、

家事育児は相変わらずですが、娘も元気に大きく育っています。

保育園が大好きで楽しく通ってくれていることが救いです。

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(友人に連れて行ってもらって動物園デビュー。生き物が大好きなのでとても喜んでいたし友人にとても懐いていた)

 

本当は毎年何か抱負を持って具体的なゴールを目指してなんか頑張ったほうがいいんだろうけど

健康で文化的な最低限度の生活をとにかく維持する。毎日をちょっとでもいい状態で終える、ということに日々少しでもこだわれたらいいと思っています。

今年もよろしくお願いいたします。

 

夜中の備忘録

二歳の娘を保育園に預けいきなりフルタイムでの社会復帰、その上未経験の業種。

おまけに欲張ってライターの副業もやめなかったらいよいよパンクしました。

それでもどうにか毎日を送らせてもらえる、周囲の優しい支えへの感謝と、自分の至らなさで迷惑をかける申し訳なさが交互に縄を綯うような毎日です。

 

「自分の非を認める」という行為について、以前は砂を噛むようなイメージを持っていましたが、最近はその壁もなくなり、誰かを責めるよりうんと楽であると気づけました。

自分の在り方さえ変えれば現状を打破できるわけです。

 

性格もだいぶ明るくなり、細かいことでくよくよしたり、「人から思われたい自分像」に縛られて破滅の道を進んだりすることもなくなりました。

理由はたぶん「脳がキャパオーバー起こしているから余計な事考えてる隙間がない」というもの。

だけどこれが楽だし毎日が楽しい。

保育園で最後まで居残りになってしまう日もある小さな娘が不憫になってしまい、親としてのふがいなさに襲われる毎日だけれど、それでも保育園の先生方が私の分まで娘を可愛がってくれて、専業主婦の私がスマホ片手にダラダラ育児してるよりも、よっぽど楽しい時間を過ごせているはずです。

その分、家での短い時間を本当に大切にしたい。

 

そして、去年の今頃から今に至るまで毎日毎日話し相手をしてくれるクラブハウスの友達みんなに、今年はどっかで会いに行きたいな。

あと島帰省も。

 

今年の目標は、仕事にしっかり慣れて、娘との時間を大切にする。

周りに甘えさせてもらって今があることを常に忘れないようにすること。

 

こんなん誰が興味あるんだって感じだけど久々にパーソナルな文章を書く気が起きたので、忘れないために残しておこう。

パソコンで文字を入力するのが大好きなだけってのもあるけど。変換がついてこれないほどのスピードはまだ維持できているかな。(パソコンのスペックがダメというのもある)

気持ちの整理

10月から強行するような形で娘を保育園に入れ、三年近く働いていなかったのに正社員としての仕事を始め、ひと月が過ぎました。

母、妹の絶大な協力、今まで寝てるだけ(比喩なし)の旦那も休みをすべて平日にして家事育児をするようになり、職場の方々も私がかなり頻繁に休み遅刻早退するのに嫌な顔一つせず特別扱いされているのを許してくれて、私を中心とする歯車を私以外の人々で潤滑に回してくれている状況で、自分だけがポンコツ。脳みそのキャパってこんなちょっとだったっけ?ひとりで全部やってるひとってまじでどうしてんの?

と思いつつ、こんなブログ書いてたりして、結局時間配分がめちゃめちゃで頭と要領が悪いんだろうなってわかっている。

仕事でも配慮してもらって期待されている分の成果は全くあげられていないし、迷惑かけるばっかりだし。とだいぶ落ち込んでいます。

だけど、ここでやめたら本当にみんながみんなに迷惑かけただけで何にもならないのでしがみついて頑張るしかない、と思うけど、それもそれでわがままだよなぁ、とも。

 

ただひとつ安心しているのは、周りの協力が大きいので当初の予想ほど娘に寂しい思いさせずに済んでいること。

保育園って本当にありがたいところだなあとかみしめて思う。

先月は「ほいくえんいやだよぉ」としか言わなかった娘が、祝日や日曜に「ほいくえんいこうせんせいまってるからいこう」と騒いだり、クラスのおたよりをみて「〇〇ちゃん!」とお友達の名前をたくさん教えてくれたり、楽しんでいる様子。

給食もしっかり食べられるそうです。

 

てことは私の作るごはんってやっぱまずいの?とか、絶対健康に悪い自信しかないとか、本当に自分のダメなところに目が向いてしまって正直しんどい。

だけど、自分のだめなところは自分しか改善する人がいないし、むしろ自分のこと直すだけで全部うまく回るならそれが一番最短ルートだよな、ともおもう。

思うところまで30年もかけてようやくたどり着いたから、この後どうするか。ここで行き詰まっています。

まわりにここまで怠惰な人間がいない(旦那は私以上に怠惰な人間だし)から、誰に相談しても分かり合えないから、うまくやっている人のまねを一つずつやりながら頑張っていこう。

とにかく娘がかわいそうなことにならないことを優先して、周囲への感謝の気持ちを伝え続けることがいまやらないといけないことのなかでこんな私にもできることだと思って、手抜かないで頑張ろう。

何度も観ている映画②

前回の記事の続き。

 

私は基本的にかなりの怖がりなので、不安になる映画はあまり進んで見るほうではありません。痛い描写は絶対無理×なので、スプラッタものはほんとに見たことがないです。

あと恐怖の種類も多岐にわたるため、ホラーやサスペンスでなくても主人公がありえないやらかしをしてこれ絶対怒られるやろとか、友達皆に嫌われて孤立するやろ、みたいなシーンも苦手です。それを踏まえて安心して観られる映画、というのが好きなのですが、改めて記事にすると、結構怖かったり嫌だなと思う描写がある作品が多いので名作映画ってすごいなぁと思わされました。

 

では本題に入ります。

サブスクを利用して見まくっている映画の一つで、観ると必ず京都に行きたくなる、私のようなボッチ陰キャでも共感できる青春が描かれている『鴨川ホルモー』(2009)。

 

www.youtube.com

万城目学による同名小説を映画化したもので、私は映画を観た後に原作を読みましたが、原作の小説もだいぶ面白いのでほんとにおすすめです。くだらないっていえばくだらないんだろうけど、頭いい人がその英知を全振りしたくだらなさってホントに面白くて、スピンオフ小説も買って楽しんでます。

原作を映画を観た後に読んだためか、映画にはないシーンなども実写版のキャストが頭に浮かんで楽しい読書ができました。

京都の四季が美しく、その中で繰り広げられる独特の青春群像劇です。

 

次はスウェーデンの児童小説が原作の『ロッタちゃん はじめてのおつかい』

(予告動画がYouTubeに転がってなくて残念)

これはロッタちゃんがただただわがままで可愛くて、北欧の風景やインテリアが素敵で、隣のおばさんがめちゃめちゃ優しくてほんとに平和な映画です。子供が巻き起こすドタバタハラハラはありますが、嫌な人も怖い人も出てこないし、観てて楽しい映画です。娘がもう少し大きくなったら一緒に観ようかな。

moviewalker.jp

 

続いてはソフィア・コッポラ監督の『ヴァージン・スーサイズ』(1999)

リズボン家の美しい5人姉妹。学校以外で外とのかかわりもなく、男の子と接する機会もない彼女たちのミステリアスなところが、近所の男の子グループのあこがれと好奇心の的。

これは、ストーリーはあやふやでよくわからない。私の脳の性能の問題が大きく影響しているんだろうけれど、なんでこういう結末を迎えるのか。

物語は、その結末について長い時間を経た後も調べ続ける男の子のグループが語り部となって進行しているので、結局のところその心は彼女たちにしかわからない、ということなのかなと解釈しています。

分からんけどな。

この映画はアートワークが秀逸なのと、今作以降もソフィア・コッポラの作品で印象的な美女を演じており、ミューズともいえるキルスティン・ダンストの演技ともいえない演技から目が離せない作品です。

キルスティン・ダンストが演じる14歳の四女ラックスは、ミステリアスな姉妹の中でも際立って色気があり大人っぽく、いたずらに男の子たちを翻弄するファムファタル的な立場で、劇中のラックスの振る舞い一つ一つが印象に残っています。

可愛い、とかきれい、とかエロい、とかで表しきれない魅力。。。

ストーリー自体は意味不明なわりに胸糞系なのでご覧になるときは注意してください。

www.youtube.com

 

他にも好きな映画や人に薦めたい映画はいくつかありますが、私自身が何度も何度も観た映画、というとこれくらいです。

ゆっくり映画見たいなぁ。